棍棒最高ピエエエエエエエエエイ

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なぜ棍棒を始めたのかという質問が後を絶たないため、会長の東樫が「大棍棒展」後に自身のnoteに書いた文章を転載する。焼け石に水だろうが。
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 大棍棒展が大盛況のうちに終わった。それ自体は喜ばしいことである。だが、会場では「なぜ棍棒を作ろうと思ったのですか?」というような質問を幾度となく浴びた。毎回わたしは、嘘ではないものの自分自身としては釈然としない理由を口籠もりながら答えた。「昔から畑の杭を打つために簡単な棍棒は作っていて」「少し前から木を切る仕事を始めて色んな木が手に入るようなって」云々、等々。なるべくありえそうな、聞き手が納得できそうな要素を記憶の中から引っ張り出してきた。なぜなら、もしわたしが「それが最高だから」としか言わなければ、聞き手の棍棒を受け止める余地を狭め、今後の棍棒の普及の障壁になりうると思われたからだ。——この物言いにも演出が含まれている。結局わたしは、自分のしていることについて少しでも興味を持ってくれた人が投げかけた質問に対して、相応の答えを投げ返そうとしてしまう性質なのだろう(それが上手くいっているかは別として)。あるいはこうも言える——こうした類の質問はたいてい社交辞令として発されるため、礼儀の型としてそれなりの応答をするのが自然であると判断する人間にわたしも含まれる。それにしても、棍棒という無骨で野蛮な代物を作り、全日本棍棒協会を立ち上げ、その会長を名乗っている身としては実に恥ずべき態度だと言わねばならない。「棍棒が最高に決まってるからやろ、しばくぞ」と答えるべきだったのだ。

 実際のところ、わたしが棍棒を始めた明確な理由は自分でもよくわかっていない。棍棒を本格的に作りはじめてまだ一年も経っていないのに、その動機を探って当時を思い出してみてもそこから何かを持ち帰れたことはない。同じ失敗を何度か繰り返すうち、わたしが棍棒を始めたというより棍棒がわたしのもとに不意にやってきた、と言うのが正しいと思うようになった。そうであってみれば、「わたしが」「始めた」明確な理由がいくら探し回っても見当たらないことにも合点がいく。わたしは向こうからやってきた棍棒を手にしただけである——棍棒が目の前に転がってきて握らない手があるだろうか! だから、なぜ棍棒を始めたのかをわたしに訊くのではなく、「なぜ彼のもとにやって来たのですか?」と是非とも棍棒に尋ねてみてほしい。

 冗談はさておき、この世界は、信じられないほど巧妙に作り込まれているにしては笑えないことが多い冗談みたいなものである。我々はみな有無も言えないままこのタチの悪い冗談の中に放り込まれているわけだが、それなら当然、せめて愉快に生きる権利が無条件に与えられていて然るべきである。理不尽の見返りには相応の待遇が準備されているのが道理というものだろう。しかし、そうではなかった。この世界はどこまでもふざけている。自分の境遇について不服を訴えたところで何がどうなるわけでもなく、無為に過ごせば野垂れ死に、生きれば苦難が降りかかる。まったく、実に、ふざけた話である。冗談がきつすぎる。納得いくわけがない。だからわたしは、おとなしく生きたり死んだりする気はない。わたしは怒っている。いまだに生きつづけているのは怒りつづけているからに他ならない。世界がその気なら、こちらも死ぬほどふざけ倒し、完膚なきまで楽しみ尽くす所存だ。この大きく悪い冗談のごとき世界に対抗して盛大な笑える冗談をぶち上げること——それ以外にわたしの生きる目的はない。そこで問題は、どうやって世界を出し抜いて楽しむかであり、どうやったら出し抜いていることになるのかということだ。いくら足掻いてみたところで全てはこの世界の中の出来事だし、材料もこの世界のものしかない。過剰にやるのはいい手だとは思うがそれも織込み済みだろう。この世界から独立することなどできない相談だ。けれどもこの世界という否応ない制約は、それが意地が悪くも強固なだけに、逆に我々の冗談が上滑りすることを防いでくれる。この如何ともしがたい構造は、だから我々にこの世界を作り返す余地をもたらす。この世界が我々に制約を与えており、その意味でこの世界と我々が繋がっているならば、我々もこの世界に何らかの謀略を仕掛けることができるわけである。

 向こうからやってきたとはいえ、棍棒はわたしの謀略*1にうってつけだった。棍棒は野蛮であり、そして滑稽である。今この2020年代という時代状況も滑稽さを後押ししてくれる。歴代の人類は、棍棒から始まり弓矢、剣、銃、ミサイルと、様々な武器を考案し、その威力は棍棒を遥かに凌ぐ。けれどもそれらはどれも、可笑しみという点で棍棒に敵わない。つまり、この世界を相手にするには不足している。たしかに現代の人間同士の戦争において棍棒は何の役にも立たないが、だからどうしたというのだ。わたしは人間ごときと戦う気はないし、そんな暇もない。それに、今時誰にとっても人間同士で殺し合っている場合ではないはずだ。我々はそろそろ、この世界を相手取って本当に笑える冗談を作り上げる頃合いである。おそらく人類史上初であろう棍棒展のわけのわからない冗談のような盛況ぶりは、棍棒の滑稽で強大な力を如実に証明していた。棍棒ほど世界をよく殴れるものは他にない。

 棍棒——この原始的で非力な武器こそ、今再び人類が手にすべき武器なのである!ピエイ!

✳︎1 わたしの主な謀略は、つち式という団体による里山を作る二百年計画である。詳しくは東千茅『人類堆肥化計画』(創元社)、『つち式 二〇二〇』(私家版)を参照のこと。

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