大棍棒宣言

 バコン、バーン、バキッ、ポオオオン、バアアアアンッ、バチ、スカッ、ドッカアアン、齢オーバーサーティの集団が棍棒で竹を殴打している。樫、栗、桜、梅、櫟、銘々持っている棍棒が真竹を打ちのめさんと暴力の限りを尽くしている。夏真っ盛りの空の下、木々から漏れる陽光が者どもの顔に踊る。汗が噴いて笑顔で爽やか! ああ健全たる人類の微笑み! 健康第一! 愉しい暴力! ピエエエエエエイ、オラッ、オラオラオラオラオラオラッ、死ねコラァ! ボケ! カス! クソが! 奇声にも色々ある。ん? なんの意味があるのか? だって! 意味を求めて大事なものがない空洞野郎ども、ああダメダメ。意味は意義は、意図は? ん? 君に問おう、君の生きる意味は? だんまり、家族のため、自分のため、でも答えは風のなか。まあ握ってみろよ、俺たちの棍棒を。鏡の前に立って構えてみろ? どうしっくりきた? なに、しっくりこない? そんなら、君と話をしない。

 *

 元始、謎の黒い石柱に触れた我々の祖先が手にしたのは棍棒であった。棍棒が人類の手を鍛え、文明の口火を切ったのだ。棍棒で殴る——その最初の昂奮と歓喜の衝撃が絶えることなく、いまだ人類の身体に息づいていると我々は信じる。
 棍棒とは、ゲームやフィクションなどでゴブリンがよく持っているアレのことだ。が、ゴブリンとセットだからといって棍棒まで空想上のものではない。少々野蛮で雑魚い架空のキャラクターの武器に貶められる以前、棍棒は大いなる道具だった。
 しかしいま、棍棒を作っていると言うと、眉をひそめて困惑する者も多い。その後はどんなに言葉を尽くしたところで最初の反応を覆すのは難しい。里山で生活しているから杭を打ったりするのに使うのだと説明すれば、相手は一応納得する。だが、大切なのはそこではない。
 棍棒に困惑する者たちも、少年時代にはその辺にある棒を拾って振り廻した経験があるはずだ。当時、熟考も躊躇もなく、棒に自然と手が伸び、その暴力を愉んだはずである。それこそ棍棒体験に他ならない。自分はもう大人だからそんな幼稚なことはしない、などと言うのだろうか。それなら、多大な悦びを棄て去ってまで生きる動機を聞かせてほしいものだ。
 個人の歴史同様に、人類の歴史の初期にあったものだとしても、いま棍棒を使ってはならないという法はない。なるほど棍棒は原始的な道具である。けれども、だからどうしたというのだ。棍棒は、原始にして不易であり、古くなりようがない。単純明快。最初で最高。他の追随を許しはしない。もし往時に比べて現代人の棍棒使用率が下がっているとすれば——いや、間違いなく下がっているだろうが——、人類文明の歩みとはかくも貧しく的外れなものかと思わざるをえない。
 とはいえ、たしかに二〇二〇年代のいま、皆で軒下に並んで棍棒を作っている時、やや奇妙な感覚に襲われることもないではない。しかしそれは、棍棒が古臭いからではない。棍棒から遠ざかってしまっていた我々のほうがどうかしていたのだ。もはや、この素朴な力、人類の古からの熱狂を知ってしまった以上、人々の白い目を恐れて棍棒の旗を中途半端に掲揚するわけにはいかないのである。

 棍棒を謳うにあたって、暴力についても語っておく必要がある。
 いつだったか、ある年のハロウィンの日に群衆が騒いで軽トラをひっくり返す映像がSNSに流れてきた。またある時、どこかの国で暴動が起き、民衆が商店を破壊し、車に火をつける様をメディアが伝えていた。身勝手な暴力の除幕に対する非難の声は多い。なるほど暴力はときに悲しい副産物を生む。だが、場合によってはいらぬ副産物をもたらすからといって暴力そのものを否定するのは、鼠を追い出そうとして家を焼くようなものである。
 暴力は元来爽やかなものだ。有り余る力を放出するのはそれ自体痛快だし、壊すことは作ることよりも意味に絡みとられる面倒が少なく、すっきりしている。そもそも、生きることは暴力であり、死がなくてはどんな生もない。暴力の停滞が生の減退を招くのであって、逆に活発な暴力こそが溌溂な生を駆動するのである。にもかかわらず、「爽やかな暴力」が語義矛盾のように響くとすればそれは、暴力を存分に発揮する機会をあらかじめ奪われた環境に、諸君がすっかり馴致されてしまっているからだ。
 都市型の生活様式が主流となっても、人間の体内から暴力が消失することはなく、暴力は出口を要求しつづける。いきおい人々は暴力発散の代償装置を次々に編み出さずにいられない。けれどもいくらガス抜きをしたところで、所詮紛い物では暴力の期待に応えることはおぼつかない。いい加減、人間風情が考案するどんな擬似体験も、棍棒のたった一打にさえ及ばないことを認める頃合いだろう。
 親愛なる暴力よ、君のいちばん素晴らしいところ、それはけっして甘んじないことだ。我々は君を棍棒でもてなそう!

 棍棒。この最も素朴な暴力の化身は、多く木でできている。すなわち、まず立木を伐倒し、適度な長さに切り分け、それを鉈で削って持ち手を拵えることで、この殴るための棒が生まれる。作るにも暴力、できあがっても暴力だ。暴力三昧雨あられ。鬼のようなわかりやすさ、清々しさ。ちなみに鬼が持ってるのは金棒。俺の相棒は獰猛な棍棒、物騒な風貌、鬼も脱帽、共謀して暴行、秒で圧勝、相手は昏倒、再起不能。
 殴るためにある以上、当然棍棒は硬くて頑丈でなければならない。木であれば何でもいいというわけにはいかない。たとえば、国内最強レベルで硬いカシで作った棍棒は最高である。握ればずしっと重く、いかにも強そうだ。「樫」と書くくらいその威力は折り紙付きでもある。カシの棍棒で何かを殴れば、己の暴力を満足させられることはお請け合い! それに対して、日本中に阿呆みたいに植えられているスギヒノキは柔らかくて軽く、建材には便利でも棍棒には全然向かない。カシの棍棒とスギの棍棒、持った時点で違いはあきらかだ。スギの棍棒には感動がない。こんなものでは、殴ったところで傷一つ付けられはしないだろう。
 つまり棍棒は、我々に感動を与えるとともに、大問題をも突き付ける。いま、都会では慢性的に暴力の発散機会が不足している一方、里山では暴力が不足している。人が草を刈り木を伐るというかつてありふれていた暴力が減少し、もはや里山と呼べない場所も増えている状況だ。とりわけ山がひどい。人の手が入らないだけならまだしも、大量のスギヒノキが植えられたまま放置され、棍棒向きの堅木を含む広葉樹たちの生える余地がない。強い棍棒を作ろうにも、そもそも材料になる木が少なすぎるのである。
 棍棒を作りだしてから我々の木への興味はいや増し、それだけに、現在の山の惨状が余計目に付くようになった。以前から我々は山の手入れにも乗り出しているが、いい棍棒をもっと作るべく、今後ますますスギヒノキを間引いて他の木々に場所を空けていかなければならない。我々は、暴力を十全に行使できる生のために暴力を揮いつづける所存だ。くれぐれも、暴力こそが生を賦活することを忘れないようにしよう。棍棒が太古からそれを証明しているのだ。
 最後に、棍棒の取柄が暴力だけではないことも付け加えておく。棍棒のシルエットの美しさもさることながら、我々の棍棒の多くが持ち手は削ってあるものの打撃部は皮付きのままであり、それゆえ外見と中身を一本で鑑賞できるのである。それだけではない。持ち手を鉈で削る際、樹種によって硬さが異なり、それを味わいながら作るのも愉しい時間だ。できあがったら握って各樹種の感触の違いまで堪能できる。思えば、こんなに木と向き合うことはなかった。一本また一本と、棍棒を作るのがこれほど愉しいとは! まだ見ぬ木を棍棒にするのも待ち遠しい。かくなるうえは、国内全樹種、果ては世界全樹種で棍棒を製造したいところだ。
 いまや諸君も、棍棒を作りたくてうずうずしていることだろう。我々も棍棒も、いつでも君を歓迎する。

棍棒万歳!棍棒に乾杯! 棍棒に幸あれ!
我々はここに、大棍棒時代の到来を宣言する。

全日本棍棒協会

参考文献:
坂口安吾「ピエロ伝道者」
平塚らいてう「元始、女性は太陽であった」
アンドレ・ブルトン『超現実主義宣言』生田耕作訳
ロートレアモン『マルドロールの歌』栗田勇訳

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